2017/12/20 | 木製標識がつなぐ、観測隊の過去と未来 | | by 管理者 |
---|
内陸旅行は、ついにドームふじ基地での初期滞在期間をこえて、新ドームふじ「NDF」地域へと前進しました。中継拠点、ドームふじ、そしてさらに内陸にすすむにあたり、過去の観測隊チームの多くの記念木製標識を眼にします。木製の看板(柱と表示版)がほとんどなのですが、丁寧に、時には木彫りで、地名、隊次やチームの構成メンバー名が記載されています。それに、ドームふじ基地の施設の現在の状況を丹念に視察して、先人の方々のこの地域での活動に思いをはせずにはいられませんでした。
今から約50年前、第9次観測隊は、南極観測を初期から牽引した大先輩である村山雅美リーダーのもとに、昭和基地から「ふじ峠」経由の南極点への往復旅行を実施しました。それに先立つ隊次の方々が、燃料デポ設置のためにすでに今のドームふじ近傍を訪れています。現地で認識した標高最高点が、富士山ととても近い標高でした。ここが「ふじ峠」と命名されました。この峠の位置は、現在のドームふじ基地から見て、西南西に約60キロメートルの地点です。このとき作成された科学レポート「JARE Scientific Report」は、現在の眼から見ても珠玉のものです。雪質の鉛直分布や空間分布が実に詳しくかつ俯瞰的に記述されています。このチームが、最初の記念木製標識を「ふじ峠」に残しました。木柱に、3枚の方向表示板がついていました。そこには「太平洋」、「インド洋」、「大西洋」の表示。なんと雄大な表示板だったことでしょう!この記念木製標識を、次に眼にしたのは、それから約30年後にここを訪れた観測隊員たちでした。この記念木製標識は、当時上野の国立科学博物館で行われた「南極展」に展示するために日本に持ち帰られました。
時は流れ、今から約33年前、JAREは「東クイーンモードランド雪氷総合観測計画」を実施するなかで、内陸ドームふじ地域への探査・進出をすすめていました。第26次観測隊は、上田豊リーダーのもと、アイスコア掘削地点の調査を目的に、南進と、ドームふじの標高最高点の位置の探査をすすめました。地平線の高さの測量を繰り返し、高い方向へ、高い方向へと、内陸調査チームの移動をすすめました。そして、ほぼ最も高い所に到達したのが、現在「DF80」と呼ばれる地点です。この「DF80」は、現在のドームふじ基地から約6キロの地点にあります。数日前(2017/12/17)に、私達はこの地点を通過して南進をすすめました。今回のチームのなかの会話で、どうしてこの地点だけルート名がMDではないのだろう?という話題がでました。MDルートは、ドームふじ基地の位置の確定とともに設置されたより新しいルート、そして、DFルートは、この第26次観測隊が探査をすすめたルートだったのです。南極観測隊のルート名には、ほぼすべての場合、観測隊の歴史と深く関わっています。私達がS16から「みずほ」に向かう間、「S」のつくルート名が多数あります。これは、上に述べた極点旅行隊が南進するにあたり開拓したルートなのです。NDFに移動する際に通過した「DF80」には、第46次隊と第47次隊の記念木製標識がありました。
1990年代にはいり、ドームふじで第Ⅰ期めの深層掘削プロジェクトが実施されました。第33次隊~第35次隊まで、基地建設、物資輸送、パイロット孔の掘削を経て、第36~第38次までの3チームがドームふじ基地で越冬し、深層掘削や各種観測にあたりました。そ今回の基地視察でも、当時の設置した施設や作業場のあとを目の当たりにしました。多くの方々の思いをのせた記念木製標識があります。その後の21世紀にはいってからの多くの隊次の木製標識は、第Ⅱ期掘削を中心としてのドームふじ近傍の観測隊活動の記念碑です。例を挙げきれません。標識をみると、かつてここに来た方々の活動、そして労苦を思い浮かべます。私も参加した隊次については、昔ご一緒いただいた多くの仲間の顔・顔、当時の様々な出来事をありありと思い出しました。
私たちも、今の活動、ー 観測隊としてはまさに最も現代の先端の ー 活動をここでおこなっていきます。今から5年、10年、20年~たっていったとき、今の活動は将来に科学観測活動のためにここに来る方々にどう振り返ってもらえるでしょうか。多くの観測準備を周到にしてここにやってきました。未来の方々や、過去の多くの仲間や先人に胸を張ってお示しできる、そうした一歩の活動をしたいとあらためて思った次第です。NDF近傍での活動をおこなっていきます。
(藤田記)