白瀬矗(しらせのぶ)の功績
 アムンセン、スコットが南極点をめざしていた時、白瀬矗もまた日本人として、あるいは白人以外の民族として初めて、南極に足跡をしるしました。白瀬の南極探検もまたアムンセンと同じように、北極点征服に端を発しています。1910年(明治43)7月、白瀬は南極点征服を目的とした南極探検計画を公表したのですが、期待した政府の援助は得られませんでした。日露戦争の戦勝気分にわき返る日本でしたが、海外へ探検隊を派遣するというような経験のほとんどなかった国内の事情を考えると、白瀬の極地探検そのものが時代を超越した考えでした。

 白瀬の固い決意により、多くの障害を乗り越え、探検隊が組織され、204トンの小さな帆船が用意されました。補助エンジンをつけた船は「開南丸」と命名され、白瀬以下27名を乗せて、11月28日、東京芝浦を出帆しました。1911年2月8日、ニュージーランドのウェリントンに入港し、石炭や食糧を補給して11日に南極へ向かいました。3月3日、日本の船としてはじめて南極圏に突入しましたが、南極はすでに冬の季節に入っていました。南緯74度まで南下しましたが、それ以上は進めず、オーストラリアのシドニーにひき返しました。
 1911年11月19日、開南丸は再び南極をめざして、シドニーを出帆しました。1912年1月12日、ロス棚氷に接近し、鯨湾西側の小さな湾から棚氷上に上陸をはたしたのです。棚氷の80mもある氷崖を人力で荷物を運びあげ、3kmの内陸に拠点をつくりました。

 1月20日、白瀬以下5名は29頭の犬に2台のソリをひかせ,南極点へと出発しました。残った2名は拠点で,気象観測を続け、開南丸は付近の海域を調査し、アムンセンを迎えにきたフラム号に会い、たがいに表敬訪問をしています。白瀬らは、寒風の吹き荒れる氷原に苦闘しながらも、9日間で300km南進し、1月28日を最南点としひき返し、30日に拠点にもどりました。  最南点は南緯80度5分、西経156度37分、標高305mの地点です。白瀬はその地点を中心に見える限りの氷原を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し、日本の領土とすることを宣言しました。また、白瀬はー塊の岩石も採集できなかったことを悔いていますが、大和雪原は海に浮かんだロス棚氷のー部であり、しかたのないことでした。開南丸は6月20日、19か月55万kmの航海を終え、日本に帰着しました。